翻訳と辞書
Words near each other
・ 中村高校
・ 中村高等女学校
・ 中村高等学校
・ 中村高等学校 (東京都)
・ 中村魁春
・ 中村魁春 (2代目)
・ 中村魁車
・ 中村魁車 (初代)
・ 中村鳳龍
・ 中村鴈治郎
中村鴈治郎 (2代目)
・ 中村鴈治郎 (4代目)
・ 中村鴈治郎 (初代)
・ 中村鶴蔵
・ 中村鷹之資
・ 中村鷹之資 (初代)
・ 中村麻未
・ 中村麻美
・ 中村麻美 (画家)
・ 中村麻里子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

中村鴈治郎 (2代目) : ウィキペディア日本語版
中村鴈治郎 (2代目)[にだいめ なかむら がんじろう]

二代目 中村鴈治郎(にだいめ なかむら がんじろう、1902年明治35年)2月17日 - 1983年昭和58年)4月13日)は、昭和を代表する歌舞伎役者の一人。屋号成駒屋定紋イ菱。本名は林 好雄(はやし よしお)。
上方歌舞伎の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。
==略歴==
大阪生まれ。初代中村鴈治郎の二男。1906年(明治39年)、京都南座で初舞台。1909年(明治42年)、初代中村扇雀に改名。幼少期は子供芝居で、やや長じては青年劇中村扇雀一座の座頭として活躍する。1924年(大正13年)に大歌舞伎に復帰し、以後初代鴈治郎・二代目實川延若十二代目片岡仁左衛門などのもとで修行。当時は主に女形を務めた。
1935年(昭和10年)初代鴈治郎が死去。このころから若手の有望株と目され、1941年(昭和16年)には四代目中村翫雀を、また1947年(昭和22年)には二代目中村鴈治郎襲名した。1952年(昭和27年)には宇野信夫の脚本により近松門左衛門の『曾根崎心中』を復活上演、以後生涯の当たり役となった。しかしこの頃になると上方歌舞伎の凋落がいちじるしく、鴈治郎自身も周囲の期待の重圧に自身の芸が伸び悩む。また三代目市川壽海を主とする興行方針をめぐる松竹との軋轢、さらには長男二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)の松竹離脱もあって居場所を失う形となり、1955年(昭和30年)に松竹を離脱した。大名跡である鴈治郎・扇雀親子の松竹離脱は、混乱と凋落の真っ只中にあった当時の上方歌舞伎にさらなる追い打ちを掛ける事になった。
以後は扇雀と共に映画やテレビへ活躍の場を移し、それから約10年の間、映画・ドラマ俳優としての活動が主となる。とりわけ映画では大映を中心に目覚しい活躍を見せた。当時の主な出演作には『炎上』『』(市川崑監督)、『浮草』『小早川家の秋』(小津安二郎監督)、『どん底』(黒澤明監督)、『雁の寺』(川島雄三監督)などが挙げられる。
映画出演の傍ら、1958年(昭和33年)からは十三代目片岡仁左衛門らとともに歌舞伎の自主公演「七人の会」にも出演したが、歌舞伎公演が激減していた当時の上方にはもはや活躍の場は無いも同然で、上方を離れ東京歌舞伎と一座することが多くなる。その間に映画出演などで芸の力が付いた事でようやくスランプを脱すると、上方和事の真髄とも言う芸を見せて高く評価された。主な顕彰歴は、1967年(昭和42年)人間国宝、1968年(昭和43年)紫綬褒章、1969年(昭和44年)NHK放送文化賞、1970年(昭和45年)日本芸術院賞〔『朝日新聞』1970年4月10日(東京本社発行)朝刊、14頁。〕、1972年(昭和47年)日本芸術院会員、1974年(昭和49年)勲三等瑞宝章、1980年(昭和55年)文化功労者
1983年(昭和58年)4月13日死去、正四位勲二等瑞宝章が追贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中村鴈治郎 (2代目)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.